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JRNとNRN (執筆 川崎隆章) †
二大中波ラジオネットワークの誕生 †
電通吉田秀雄がによるネットワーク化の推進
もともと民間放送は、権力支配を受けない第二ラジオネットワークの必要を感じた在京・在阪事業家の声と、戦前の日本放送協会のローカル放送軽視に反発した地方の声を反映して誕生したものである。特に地域番組重視は多くの民放局で発起の際第一に掲げられたが、そこに警鐘を鳴らした人物がいた。それは民間放送推進者の一人であり当時電通社長であった吉田秀雄である。
吉田は民間放送を全国に推進しながら(当時の経営者、財界関係者の多くがそうであったように)経済基盤が脆弱な地方都市で充分な広告収入を得ることができるかどうか、不安を持っていた。そこで彼は黎明期から「ネット番組」による制作費の軽減と営業活動の集中化を企画し、各局に話を持ち込んでいった。
その提案は「地元の声を反映させることを第一としたい」という気概の地方局設立者たちの多くから当然のこと、反発を受けた。特に大阪、名古屋では東京に対する対抗意識の強さがあった。
特に、中部日本放送開局前に吉田は「ラジオ東京開局まで待って、テープネットを受けた方がいい」と進言して猛反発をかっている。実際中部日本放送は開局からおよそ一年近く、ほとんどの時間を全力の自社制作番組で切り抜け、ヘトヘトになったのだ。
四社競争によるフリーネット時代
結局、在京・在阪局は番組制作と配給の側に回り、それ以外の中小都市局はこれらの番組が「よりどりみどり」の状態で選べるメリットを感じ、積極的に番組を購入していった。たとえば静岡放送に至っては開局から1953年まで(番組中継回線がなかったため)KRTの放送を受信して直接中継し、その合間にローカルのミニ番組を挟むという荒技をおこない、初期の経営的難渋を乗り切った。
結果、電通が営業活動をプッシュしたCBC中部日本放送とNJB新日本放送、そして独自営業を推進したABC朝日放送とKRTラジオ東京、加えて独特のタッチであったNCB日本文化放送制作の番組が全国の民間局の放送枠を奪い合うことになった。実際にはNJB、ABC、KRTの三社が圧倒的なシェアを占め、NHKのネットワーク番組と全国各地で競い合った。未だに語られる激戦にはNHKの筆頭人気番組「素人のど自慢」と、その裏番組「職場対抗歌合戦・金の歌銀の歌」などがある。
やがて、1958年ニッポン放送が開局。地方局が営業活動をしなくてもすむナショナルスポンサーの黒ネット番組(スポンサー提供つき番組)を中心に販売したり、恒常契約による割引制度などを戦略的特長に打ち出して、あっという間に全国ネット枠競争に参入。次々と枠を獲得していった。
これらライバルは制作協力の相手でもあった。在京局は関西の、在阪局は関東の取材や生放送などで協力しあった。文化放送はこういった形での貢献が多かったようである。
ラジオ業績低迷への切り札(honor)だった「オーナー」(TBS)
1962年頃、TBSラジオ運営委員会は営業収入の頭打ちと制作費の高騰を打破するため、アメリカの成功事例を参考にパートタイムセールスの研究をすすめた。結果、米CBSを訪問した訪米調査団はローカル向け放送の重要性を確認した。
しかし、当時TBSは全国の多くの局に向けてネットワーク番組を制作していたためJOKR番組(ローカル)とネットワーク番組で別番組を供給するシステムを必要とした。そこで、既に効果をあげていたテレビのJNNと対比させながら1964年7月、月〜土の長時間生ワイド番組「オーナー」を開始。
「オーナー」:1964.7.13-1966.10.1 月〜土 13:00-18:00
芥川也寸志、小島正雄、三国一郎と女性局アナの組み合わせで、曜日交替のアンカーパーソンとなり、ネットワーク番組を挟みながら、聴取者参加を基本としながら音楽と情報中心の編成を組んだ。曜日別の企画を排し、長時間継続して聴ける流れのある(まさに現在のワイド編成の魁となる)ものを目指し、スタジオ公開生放送で、パーソナリティと観客の他にジャズ・クインテットと電話オペレーターを入れるなど、当時としては画期的な動的番組であった。
13時台:一般向けエンタテインメント
14〜15時台:主婦向け教養、ニュースショウ、電話相談
16〜17時台:ドライバー向けおよび児童向け
(ネット番組「ダイヤモンド・ハイウエイ」含む)
この時ラジオネットワーク開設の布石とするためMBSとRKBとの間に暫定的契約を結び「ネットワークセールスを伴った1時間(当面)の同時ネット」を始めた。これが、日本の民間放送における(営業協力まで含めた)本格的なラジオネットワークの始まりである。そのため、JRN(Japan Radio Network)は、事実上こちらが出発点となっていたのである。
JRNの発足・NRNの発足
1963年、ナイター全面中継、1964年「オーナー」と実践的研究はすすみ、そして翌年の1965年、TBSを起点としたラインネットワークの完成によって、全国に同時送出ができることとなったのを契機にTBSは秘密裏に各地の民放局を訪れ構想を説いて勧誘を促した。
東京発の番組を特約価格で自由に買い付けることができ、かつ、ナショナル・スポンサーからの配分金が受けられるという好条件に各局とも賛同的ではあった。しかし、そこに二つの障害が現れた。
一つは、各局とも地元新聞社との関係が深かったため、ニュース番組を提供することが困難であったこと。もう一つは事前にサンケイ陣営が情報をかぎつけ、文化放送とニッポン放送がNRN(National Radio Network)の結成を呼び掛け、セールス重視の方針をとったことである。ただ、各局ともそれ以前から在京・在阪各社の番組をとりまぜて購入していたこともあり、実際は大部分が両ネットワークに重加盟する結果となった。
JRNの発足は1965年5月2日、NRNの発足は1965年5月3日重加盟局が多く発足式をダブらせることができないためNRNが一日譲って後発となったのである。
加盟局一覧(■□=JRN □■=NRN ■■=重加盟 □□=非加盟) †
100kW局 †
50kW局 †
20kW局 †
10kW局 †
5kW以下の局 †
上記以外の拘束
上記の表でもわかる通り、ラジオ日本?、岐阜放送、ラジオ関西の三局は、二大ネットワークに参加せず、三局間で簡単な番組ネット提携をしている。
回線のやりくり(情報提供:柴田恵陽) †
ラジオネットワークは何より各局に確実に(野球中継などの)生番組を配給することができる事が必要である。各ネットワークはメタル回線(アナログ)、コーデックを使用した電話回線(デジタル)などで結ばれ、一つの生番組を送る際は、必ずバックアップとして別回線で同じ内容を送信することになっている。
また、民放各局は本社と支社間で自社専用回線を持っており、素材送りに使われるほか、たとえば支社が集中する東京の場合、東京発、または東京を経由する生放送番組を地方に送る際、バックアップ回線の不足を補うために融通してもらうことなどがあったという(コーデックが何台も使えるようになった現在では既に聞かなくなった苦労話ではあるが)。たとえばNRNの場合、ニッポン放送発の番組と文化放送発の番組が同時に重なった場合、たとえば(NRN単独加盟の)東海ラジオ放送の本支社間連絡線(東京=名古屋)を借りて送ることなどがあったという。